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グリーンシート

 阪神甲子園球場の座席は、甲子園名物の銀傘の下のバックネット裏がグリーンシート、1塁側がイエローシート、3塁側がオレンジシートと名付けられていて、各々の名前のとおりの座席が設置されている。
 甲子園の場合は、ほとんどの座席が阪神ファンで埋まってしまうので、1塁側も3塁側もたいした違いはないのだが、ファンの心理として1塁側のイエローシートに陣取ってしまう。相手の選手がベンチを出入りするときに思い切りヤジるために3塁側のオレンジシートに座る人もいるが大勢ではないようである。そのせいか、満員でないときの甲子園は上から見ると茶色い土、緑の芝、黒い頭、そしてオレンジの座席が区分よく配置されているような見栄えである。黄色い座席は人で埋まっていてあまり見えない。
 外野席や外野席に近い内野席には年を取ってくると体力的にあまり近付けない。若い阪神ファンが応援団と呼応して総立ちで声を張り上げている。
 グリーンシートはバックネット裏なので値段は高く、若い頃の裕美にはなかなか手が出せなかった。阪神ファンの裕美はいつも少し値段の安いイエローシートに座ったものだった。
 そして、グリーンシートには、どういう訳か一人でやって来ては一心不乱に声援を送ったり、ヤジを飛ばしたりする中年のオバサンが何人かいた。多分、彼女達は独身で、唯一の生きがいが阪神タイガースなのだ。年を取ってもあんな女性にはなりたくない、裕美はよくそう思ったものだった。

 西宮市で生まれ、育った裕美にとって、阪神タイガースは、言ってみれば、唯一のプロ野球のチームであり、甲子園は唯一のプロ野球の球場である。
 人工芝が普通になり、ドーム球場が台頭してきた現在では、大正時代に作られた巨大な球場は時代遅れかもしれない。球場を取り巻く蔦が、見るからにレトロな雰囲気を醸し出している。
 そう言えば、最近は打球がイレギュラーすることも少なくなってきたが、甲子園ではプロ野球、高校野球を問わず、何気ないバウンドが勝敗を左右することがある。極端に言うと、球児の一生を左右することもある。球場の職員が細かい石ころ一つにまで気を配り丹念に整備していると聞く。

 裕美が結婚して東京に引っ越して行ったのは2年前のことである。
 屋根の無い球場を見て育った裕美が結婚した相手は、屋根のある球場を本拠地にするチームのファンである男であった。
 東京の会社に勤める男は、一時期神戸支社に転勤になっていたときに裕美と知り合った。
 30歳を前にした裕美が、東から来た男との結婚を決断するにはそれほどの時間を擁することではなかった。
 男が一緒に暮らそうと言っている。裕美もいずれは誰かと一緒に家庭を作るものだと考えていた。たまたまそういう年頃のときに目の前に現れた男であった。
 結婚を決めたあと、男は本社に帰って行った。

 東京での生活を始めた裕美の戸惑いは予想外に大きかった。本当に大きかったのかどうかは今でも分からない。不安を持った人間にとっては些細なことが時に大きな問題になる。
 食べ物の名前が違う。畳の大きさが違う。うどんの底が見えない。挙句の果てに、エスカレーターで右側に立っていたら怒られた。
 男は、朝出て行ったきり深夜まで帰ってこない。東京という土地柄なのか、近所の主婦とも疎遠である。人と話の出来ないということは大変なストレスであった。
 そうだ、阪神タイガース。阪神の試合を見ればストレスからも少しは解消されるであろう。生まれたときから、阪神タイガースのテレビ放送は完全放送と決まっていた。
 しかし、東京ではテレビ放送が無いどころか、ラジオまで放送していない。大都会の中で、雑音混じりの関西からの放送を必死に聞いた。
 ほとんど負け試合であった。それでも良かった。負けることには、生まれたときから慣れている。
 東京ドームで阪神を見たこともある。しかし、何かが違うのである。目の前でプレーしている選手は本当に阪神の選手なのだろうか。確かに実力は阪神の弱さそのものである。
 緑色のダイヤモンド、非常に狭い外野席、それに、何よりもこの球場には海風が無い。また、当たり前のことだが、ユニフォームが違うのである。阪神の選手がどこか余所行きの格好をしている。

 結婚生活は、もう少しで2年というところで破綻した。男は裕美のストレスを理解することもなく、普通のサラリーマンとして会社と家を往復していた。
 それは離婚の日も同じだった。男は朝食を食べて、いつもの時間に家を出ていった。
 裕美は、皿を洗い、掃除をして、部屋を一度見渡した後、マンションの扉を締めた。そのあとに鍵を郵便受けに放り込んだこと以外は、日頃買い物に出掛けるのと全く同じ日常の延長であった。
 鍵を郵便受けに放り込んだ瞬間、日常の延長戦は終わった。サヨナラ勝ちしたのか、サヨナラ負けしたのか、自分でも分からない。ただ、人生の中の一つの戦いが終わったことは確かである。

 来るときは左にあった富士山が右にはっきり見えた。ナゴヤ球場はその逆である。鴨川を渡り、天王山の横をすり抜けた「のぞみ」が新大阪に滑り込む。
 西宮に帰る裕美は、躊躇無く、JRではなく阪神電車に乗ることにした。
 梅田駅では、ナイター観戦に向かう阪神ファンが既に気勢を上げている。
 甲子園駅。裕美は思わず電車を飛び降りた。

 お寺の仲見世のような甲子園球場の前の土産物街を通り抜け、高速道路の高架下をくぐり抜けると、蔦で覆われた、見慣れた甲子園球場が目の前に現れた。
 黒い土、緑の芝、真っ白な縦縞のユニフォーム、そしてそれらを照らすカクテル光線。海風、焼き鳥の煙、銀傘に響く打球音。全てが裕美を温かく迎えているようであった。

 気が付くと、裕美は無意識にグリーンシートに座っていた。
 すぐ近くでは、一人で来たと思われる中年のオバサンが大声を張り上げていた。裕美も一緒に声を張り上げた。
 阪神タイガースと同じように、人生には負けが付きものである。選手に最も近いグリーンシートは、声を張り上げて、選手とともに負けてもやり直すことを誓う席でもある。
 少なくとも、ホームゲームではサヨナラ負けはない。

〈2001年作〉



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東京銀座で阪神ファンの集う店
阪神戦完全中継





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コメント (14)

サオリ:

今週、横浜に阪神戦を見に行きました。
いつ、行っても金本選手をはじめ知ってる選手がいるので、
選手たちに久しぶり!と挨拶したいような気持ちでしたが、
裕美さんはもっと強い気持ちだったのでしょうね。

こんにちわ(≧∇≦)b
TBありがとうございます♪

この前グリーンシートで観戦してきたばかりだったので『わかる♪わかる♪』って思いながら読ませていただきました(*゚∀゚)ゞ

miha:

また、読んで泣きそうになりました。。。

サヨナラ負けも、「サヨナラ」する相手がいるだけマシ?

なんちって〜

mihaさま、

>また、読んで泣きそうになりました。。。

 そんな悲しい話ではないと思うのですが。


>サヨナラ負けも、「サヨナラ」する相手がいるだけマシ?

 うぎょ、確かにその点は考えたことはなかったです。
 せめて引き分けに持ち込みたいものです。。。
 そもそも、このワタクシの場合は、試合が開始されていないような気もしないでもない。

ナックル:

ぱんちょ様

名作です。

続編を何卒宜しくお願い致します。

ぱんちょ:

ナックルさま

 続編云々よりも、甲子園球場からグリーンシートの名前が消えるようで、それがショックで筆がまったく進みません。。。

ナックル:

ぱんちょ様

えっ、マジっすか??

甲子園球場にはしばらく行っていないもので…。

ぱんちょ:

ナックルさま

 すいません。嘘でした。
 なくなるのは、オレンジとイエローだけでした。(参照: http://www.hanshin.co.jp/koshien/seat/ )

 それにしても、改めて甲子園のシートマップを見てみて、ロッテ戦の位置付けが高いことに驚きました。

ナックル:

千葉ロッテの躍進が90年代のアイルランド経済の急成長“Celtic Tiger”と重なって見えるのは私だけでしょうか??

ぱんちょ:

ナックルさま、

 むむむ、、、多分そうだと思います。。。

ロブ改め栄子:

これは実話ですよね?(笑)

ぱんちょ:

ロブ改め栄子さま、
 どこまで実話かは別として、モデルはいます。

41歳独身男:

不覚にも泣いた。

今週の水曜日にグリーンシートで観戦します。
中年のオバサンいてるかな?w

ぱんちょ:

41歳独身男さま

>不覚にも泣いた。
 それは不覚ですね。。。

>今週の水曜日にグリーンシートで観戦します。
>中年のオバサンいてるかな?w
 間違いなくたくさんいると思います。
 また、レポートをお願いします。

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